(2)
「えェ、お嬢さん。絵に興味のある人にはすっかり有名ですが、あのラスはあなたのお父さんです。」
スミレも麻子もそれを聞いて、顔を見合わせたまま暫く言葉が出てこなかった。
「それまでの4年間は、私達がレイ。― と彼のことを呼ぶものですから、作品にはずっとレイというサインを入れていました。ところが急に、これからはラス。― と作品に入れる名前を変えるからと言われて、私達も驚いたのです。まァ、その時彼は、その理由やラスの名前の意味が何なのかをいっさい教えてくれませんでしたが・・・。」
「そうでしたね。ラスって名前には、回りの皆が首をかしげていましたものね。・・・でも、私は今凄くあの名前が気に入っているのよ。」
ミセス・ベンサソンはそう言ってスミレに微笑んだ。
「マミー。この人の絵、私も持ってるよ。ほら、ベッドの側の壁に掛けてある、ソルバングで買った絵・・・。」
実は、スミレの部屋にはラスの作品が一枚飾ってある。それはロス・エンジェルスから100キロほど北に上がったところにある、ソルバングという小さな街のフェスティバルの様子を描いたもので、5、6年前にスミレが恋人のジェミーとソルバングに出かけた時に、街中の小さなギャラリーで見つけて、ひと目見て気に入って買ったものだった。ソルバングはアメリカを忘れさせるくらいヨーロッパ、特にデンマークの街並みの雰囲気に溢れていて、そのメルヘンチックな雰囲気は、きっとラスの好みに合っていたのだろう。確かスミレの持っているものは、250枚印刷されたものの内の、74番目と書いてあったとスミレは記憶していた。
「ここにある三枚の絵と、私が持っている絵って、やはり感じが似てる。確かに同じ人の作品なんだね・・・。」
スミレはそう言うと、真ん中に置いてあるリスと遊ぶ少年の絵を手にとって、まじまじと見つめた。
「スミレ。あの絵って、本当にソルバングで描かれたものに間違いないのかな。」
麻子はソルバングという地名を聞いて、反対に気持ちが沈む思いだった。
「お嬢さん。それは間違いなくラスが描いたものでしょう。彼は7、8年前にロス・エンジェルスに行った時、ソルバングに立ち寄って何枚かの作品を描いて、その内本人が気に入った二点を発表しています。それをお嬢さんは手にされたんですか。あなたが気に入って買ってくれたと知ったら、ラスも喜ぶでしょう。」
ミスター・ベンサソンはそういって嬉しそうにスミレの顔を見たが、あまり浮かない顔をしている麻子に気が付くと、少し困った顔をしてミセス・ベンサソンの方を見た。そしてミセス・ベンサソンに促されて麻子の方に向き直ると、コーヒーで口を湿らして話し始めた。
「実は、ミズ・アサコ。これからが大変重要な話になるのですが、4年経って、レイがどうして急にロスに行くと言い出したのか。どうして帰って来て急に人が変わったようになったのか。彼がその理由を話してくれたのは、個展の後、暫くしてからでした。それまでニューヨークに来る以前のことは、何があっても一切口にしなかったレイが、やっとそれまでのことを打ち明ける気になったのですから、私も何かロスであったということは想像できました。ですから、私達は黙って彼の話に耳をかたむけるだけでしたが、彼の苦渋に満ちた表情から、彼の内面にある苦しみの大きさはよくわかりました。・・・自分には以前ロスで一緒に暮らしていた女性がいた。だが、僕はその人に理由を何も告げずロスを飛び出してきた。おそらく彼女は裏切られたと思っているかもしれない。あの時ロスを飛び出した理由はどうあれ、僕が彼女を苦しめたことは事実だ。・・・やっと今こうして、僕は絵を描いて生きていける目処がたった。だから、どうしてもその人が今どうなっているのか確かめたかった。会ってくれるなら、どうしても彼女に謝りたかった。そのためにロスに行った。― レイはそう言っていまし
た。しかし、残念ながらロスに行ってレイを待っていたのは、彼には大変酷な現実だったようです。アサコ。あなたのことは、レイのロスの知人にいろいろ調べてもらったようですが、あなたに子供がいて、その子がどうも自分の子だと知らされた時の驚きは、相当のものだったようです。あなたが結婚してしまっていたことは、仕方のないことだとレイも諦めていました。ですが自分の子供の存在には、いくら知らなかったこととはいえ、自分の無責任さを嘆いていましたよ。」
麻子は予想もしていなかったことを聞かされて、頭の中が真っ白になりかけたが、そんなことを聞かされても、あの時自分が受けた苦しみが誰のせいか考えただけで、礼一が許せるはずもなかった。
「アサコ。私は聞いたのよ。そんなに大事に思っている人がいたのに、どうしてわざわざ自分から飛び出してまでニューヨークに来る必要があったの。― ってね。そしたら、レイは暫く考えていたけれど、話してくれたわ。あなたとのロスでの暮らしのことをね・・・。あなたと会った時のこと。同じ職種の仕事をしてたこと。二人で暮らすための部屋を捜し歩いたことも嬉しそうに話していたわ。それから・・・、二人で同じコンペに出品したこと。それであなたが当選したこと。・・・信じられないかもしれないけれど、レイにはみんな大切な思い出だったの。レイは決してあなたを気持ちでは裏切っていなかったのよ。・・・ただ、アサコ。あなたがコンペで当選した時、あなた達はお祝いをするために食事に出かけたでしょう。その時あなたがレイに言った言葉を、あなたは覚えているかしら・・・。あの時、勿論あなたはレイを励まそうとして言ったことでしょうけれど、レイにはその言葉は辛い言葉だったの・・・。」
「ミズ・アサコ。あなたも勿論そうだったでしょうが、レイもあなたと同じように夢を持ってアメリカに渡って来た。そうですよね。しかし、あなたはレイの何十倍もこの国で努力をしたキャリアがある。結果、そのコンペで見事当選した。それは大変素晴らしいことです。しかし、レイからすれば、これでキャリアという面でも、実力でも、到底あなたには適わないと思うしかなかったんでしょう。そんな勢いづいたあなたを見て、一番プレッシャーを感じていたのは、レイだったんです。そんなレイに、あなたがレイを励まそうとして言った言葉は、逆にレイにもっと大きなプレッシャーをかけることになった・・・。レイは言っていました。あなたから言われたことは全て正しいことだった。反論できるものは何もなかった。もしここが日本だったら、僕は何の焦りも無く将来を見据えて生きることができただろう。だけどあの頃、今自分がいるこのアメリカで、自分の居場所が見つからない苦しみを、一番痛切に感じていたのは自分だった。― あなたが思っていた以上に、レイは将来に対して不安だったんです。私も同じ男ですから、レイの気持ちは理解できました。愛する人がいて、これからその
人を守り通さなければならないという立場に立っても、自分には人生を築いていくための礎が見つからないどころか、将来に対する希望すら持てない状況にあったとしたら・・・。アサコ。レイからすれば、あなたは紛れも無くアメリカでの成功者だった。敗者の気持ちになってしまった人間は、勝って勢いのある人間の側には居づらいものです。あなたがパートナーだけでなくライバルであればなおさらだ。それに特にレイのように、人を傷つけるような対立を望まないタイプの人間にはね・・・。だから、あなたの側を離れようと思ったんです。あなたの側に居ることはできなかったんです。・・・そして、勿論日本に帰ることもできなかったようです。もっと惨めになるからでしょう。・・・レイにとって唯一残された道は、このアメリカで自分が自信を取り戻して生きていくこと。それしかなかった。もう一度何かにチャレンジして、プライドを取り戻すしかなかった。それで考え抜いたあげく、ここに来たんです。」
私は礼一の何を見ていたんだろう。― 礼一を思い出しながら、麻子はぼんやりとそう考えていた。
私が幸せそうな顔をしていれば、礼一も幸せそうだった。礼一が幸せそうな顔をしている時は、私も幸せだった。あの頃は毎日がそうでありさいすればいいと思って生きていた。だけどもしかして、私は礼一に自分の希望ばかり押し付けて、甘えてばかりいただけで、こちらから礼一の気持ちを理解しようと努めたことはあっただろうか。礼一にだって辛いことは勿論あったはずなのに・・・。食事の席で、私が礼一に言ったことはあまり覚えてはいなかった。たぶん酔いにまかせてきつい事をいってしまったんだろう。おまけにそれから礼一がいなくなるまでの間、私は忙しさに感けて、まともな会話すら礼一としなかった。・・・後は、この二十数年間、礼一に対する恨みばかり・・・。自分はいったい何を見ていたのだろう。― 津和野で会った時の礼一のおぼろげな顔が浮かんだ。礼一がいなくなった理由をもっと早く知って、あの時あの人が礼一だとわかっていたら、わたしは何でもいいから償いることができた。― 麻子にそういう悔やみの気持ちが生まれていた。
あなたが思うほど、私は弱い人間ではない。― すでに私だということがわかっていて、突き放すように言われたあの言葉が、改めて麻子にはずしりと重い言葉に感じられた。一人で多くの困難を乗り越えて、こんなにも素晴らしい成功を収めていたからこそ言えた言葉だったんだ。― と改めて思った。
「アサコ。レイはね。画家としてどんどん成長していったわ。この二十年の間に、ワシントンやシカゴやアトランタ、それからシアトルにサンフランシスコにモントリオールにトロント。他にも沢山の街で個展を開いたし、いろんなポスターも手がけたわ。それに、多くの街のフェスティバルを題材にした作品群は、大変な人気にもなったわ。だけど、レイはそうして有名になればなるほど、自分を表舞台に出さなくなっていったわ。どうしてだと思う・・・。レイには、あなた達に対する遠慮があったの。特にスミレ、あなたに対する自責の念は、それは大きかったわ。ラスという画家が、実はレイイチ・イタクラという日本人だと世間にわかってしまえば、きっとあなた達の耳にも入るでしょう。あなた達に対する責任を全うしなかった人間が、同じアメリカで成功しているとあなた達に知られることは、レイには絶対に許されなかったの。だから、マスコミの前にでることをレイは一番嫌った。・・・レイという画家を世間は不思議に思ったでしょうが、私とピーターはレイの気持ちを理解できたから、いつも主人がレイの代わりを勤めていたの。そしたらいつの間にか、ラスは中国系のアメリカ人だと
いう噂が広がったりもしたわ。それから、ラスの作品が売れるようになって生活が楽になっても、決してレイは進んで楽をしようとはしなかった。逆にお金が入れば、その殆どを孤児院に寄付したの。それで何度かニューヨーク市から顕彰の話があったのだけれど、レイは全て断ったわ。どうしてだと思う。・・・本人は何も言わなかったけれど、それはね、せめてものスミレに対する償いを、形を変えてしていたからだと思うの。娘に出来ないことを、身寄りの無い子供達に対してしていたのよ・・・。」
ミセス・ベンサソンは立ち上がると自分の机のところに行き、引き出しから封筒を取り出して持ってくると、中から写真の束を取り出し、スミレと麻子の前のテーブルの上に一枚ずつ並べていった。
「この写真はね、レイがニューヨークに来て、私達と知り合ってからのものを探して集めておいたの。あなた達が知らない、レイの二十数年間の歴史・・・。きっと知りたいだろうと思って準備しておいたのよ。これが一番若かった頃のものね。」
ミセス・ベンサソンはそう言って、礼一がどこかの家の玄関先に座っている写真を指差した。それは紛れも無くロスから居なくなった頃の礼一だった。
薄ら笑いを浮かべて座っている姿は、自信なさげで、何となく寂しそうで、ロスに居た頃よりも麻子には小さく映った。麻子は暫くその写真の礼一の顔をじっと見つめていたが、あまりにも痩せこけて頼りなさそうな姿に、ついには耐えられなくなったように顔を両手で覆った。
「アサコ。あなたがレイに言った言葉がレイを傷つけたり、レイにこんな辛い試練を与えたなんて決して思わないでね。だってレイは自分で納得してたんですもの。それにもしあなたが言ってくれなかったら、僕の今はない。― そうも言っていたのよ。・・・だからお願い、レイのためにも泣かないで。まだまだあなたが知って、わかってあげなければならないことは沢山あるの。それにもっと確りレイのしてきたことを受け止めて、理解してあげなくちゃ。ニューヨークで生きたレイのこの二十数年間のことを、全てあなたの記憶の中に留めてあげてから、それからゆっくり礼一を偲んでほしいの・・・。」
ミセス・ベンサソンに礼一の半生を見届ける義務がるという言い方をされて、麻子は少し戸惑った。自分のところからいなくなっってからの礼一の半生のいったい何が、自分と関係しているのか、麻子にはまだわからなかった。しかし、そこまではっきり言われるからには、なにか礼一のその後の人生が、自分の人生に関係していたということなのだろうか。― 麻子は迷うばかりだった。
「ミズ・アサコ。裸同然でニューヨークに来て、ここまでレイが成功したことは、おそらく奇跡と言っていいでしょう。勿論彼には天性の才能もあったでしょうが、何のあてもなく飛び込んだ街で、ここまで成功することは本当に稀なことです。ただ、レイがニューヨークでそれに要した時間と、あなたがその後、生きていくための道を決めるために要した時間に、残念ながら多少ずれがあった。確かに4年という歳月はあまりにも長過ぎました。だから今は、全てはそういう運命にあったと考えるしかないでしょう。・・・私も今初めて、レイがニューヨークで生きた歴史を、こうして整理してもらって見るのですが、あなたが今じっと見ていた頃のレイと、ほら、これ。これは5年ほど前のものですが、彼の優しい眼差しは少しも変わっていませんね。」
そう言われて麻子も机に並べられた写真を一枚一枚確かめるように見たが、どの写真の礼一も、昔の礼一と同じ優しい目をして写っていた。
「ところでミズ・アサコ。先日レイのことでお呼び立てするために電話を差し上げた時、私が、レイが亡くなった。― そうお伝えした時に、あなたは礼一が他界したことを知っておいでなのではないか。そんな気がしたのですが、もしかして日本で礼一が偶然あなた達に会っていたことに、あなたは気が付かれていたのですか。」
麻子はその質問にゆっくりと頷いた。そして、津和野での出来事を話して聞かせた。
「私が礼一だと気づいたのは、礼一と別れた後にスミレとその神社で待ち合わせて、二人でその神社のある山から下りてからでした。分かれる間際に、私の実家の金沢という名を、彼の方から口に出していたことに気が付いたものですから・・・。津和野で会う人間で、そんなことを知っている人間は礼一しか考えられません。もしその時に私が気づいていたら、何か違った言葉をかけることができたと、今は残念で仕方ありません・・・。それから礼一の病気のことは、神社に上がる道すがら本人の口から聞きました。・・・というのも、二人で階段を上がっている時、あまりにも彼の様子が苦しそうで、どうしてそんなに無理をするのか不思議だったものですから、思い切って理由を聞いたのですが、彼は、自分がガンで、もう長くない。― そう正直に打ち明けてくれました。ですからあの人に残された時間があまりないことはそれで知りました。」
「あァ・・・、なんてことでしょう。」
ミセス・ベンサソンはそう言ってハンカチで顔を覆った。
「そうですか、そんなことがあったんですか・・・。ミズ・アサコ、実はその翌日に、レイは私達のところに電話をしてきているんです。最初は物凄く興奮した口調だったので何事かと思ったのですが、日本であなたとスミレに会うことが出来た。― そう言うんです。わたしもまさかと思ったんですが、レイは、信じろよ。― って、自信ありげに言い切るものですから、私はそれが現実に起きた奇跡だと思いました。・・・彼は余命を宣告されてから、残りの僅かな時間をどう過ごそうか悩んでいました。最初はこのままあなたとお嬢さんのいるアメリカに骨を埋めると言っていたのですが、それが急に日本に帰ると言い出したんです。その時にはすでに相当体が弱っていましたから、長時間の飛行機でのフライトに耐えられる限界のところまできて希望を変えたようです。何十年も見ていない故郷が恋しくなったのか、それとも日本に帰れば肉親もいて、多少なりとも安らかな最後を迎えられると思ったのか。― それは私達にもわかりませんが、とにかく実家のあるツワノ・・・、ですか。そこに帰ったことは、レイの人生の締めくくりにドラマを生んでくれたようです。」
麻子は話を聞きながら、テーブルに並べられた写真の中の礼一を、一枚づつ目で追っていた。するとその中の一枚に、津和野で会った時と同じ格好をしている礼一の写真があることに気づき、それを手に取って見つめた。どこかの海岸で、一人でたたずんでいる写真なのだが、サングラスをかけているので、たぶん最近のものだと思ったが、何か置き去りにされた子供のようで寂しそうに見えた。
「それは去年の夏に、目が見えなくなって部屋に閉じこもりぎみのレイを連れて、ロングアイランドのビーチに出かけた時のものなのよ。口髭も顎鬚も伸ばして、サファリ・ハットを好んで被っていたわ。ここ10年位はずっとその格好だったわね。」
「津和野で会った時もこの格好でした。その時どこかで以前見たことのある人のような気がしたのを覚えています・・・。勿論この写真に写っているような礼一と、昔の彼は、私には絶対ダブりませんが・・・。」
ミスター・ベンサソンは麻子の話を聞いて、少し考える振りをしていたが、それはもしかしてあの新聞を見られたせいかもしれませんね。― そう言って、ファイルの並べてある棚から一冊のファイルを取り出すと、ページを捲って何かを調べているようだったが、その内探していたものが見つかったらしく、何度か頷くと、麻子に向かって話し始めた。
「ここにある、レイの作品製作の記録で見ると、今から7年ほど前に、ロスでポスターの仕事を頼まれて滞在したことがあります。その時たまたま打ち合わせの場所に居合わせた日系新聞社の記者に、ラスという名前を聞かれてしまい、それまでラスという画家がベールに包まれた人間だったこともあり、強引な本人へのインタビューの申し込をされたのですが、私達は断りました。しかし、写真だけは小さく載せるという条件で渋々許したんです。それを見られたのかもしれません。」
麻子の自宅でもその日系新聞は購読していて、『ラスは日本人?』という見出しで、小さな写真が添えてあったのを、その話を聞いて麻子も思い出していた。社会面の隅の方に小さく扱われた記事だったが、ちょうどその頃スミレが買ってきた絵が、スミレがラスという人の描いた絵だと言っていたし、雑誌でも何度かその名前を見たことがあったので、『ラスは日本人?』という記事には、同じ日本人だったのかという思いで、何となく興味を引かれた記憶があった。それに写真があまり大きくなかったので、逆に食い入るように見た記憶があって、そのイメージが頭のどこかに残っていたのかもしれなかった。
「その当時でさえ、ラスという名前をあなたでも聞かれたことがある位ですし、アメリカでの彼の名声は、今ではすでに確立されたと言っていいでしょう。それに日本や多くの国でもファンを沢山作りました。ですから私達は、レイの余命が僅かと本人から聞かされた時に、レイのアメリカでの歴史を振り返って、君は納得のいく良い人生が送れただろう。― そう言ったことがあります。・・・ところが、私達はレイ本人もそう思っているとばかり思っていたのに、私達の思いとは裏腹に、彼は首を縦に振るどころか、寂しそうに俯いていました。彼の気持の中には、自分が築いてきたもの以外に、複雑な思いが沢山あったんでしょうね。・・・まァ、それはレイの心の中の問題ですから、私達にわかるなずもないのですが・・・。しかし、あなた達とツワノで会った後かけてきた最後の電話で、レイはこれまでにない穏やかな口調で、その心の奥を私達に話してくれたんです。彼はこう言っていました。ニューヨークに来てからの僕の半生は、他人から見れば成功者であり、アメリカン・ドリームというストーリーを完成させた幸せ者に見えるかもしれない。しかし、僕の気持ちはいつも満たされないでい
たんだ。名声も富みも、僕には最初からまったく興味のないものだった。勿論君と知り合って絵を描くことを覚え、それは僕の生きがいではあったが、それで有名になりたいとか、お金持ちになりたいなんて最初から思ったこともなかった。・・・じゃあ、どうしてあんな作品が描けたのかって思うかもしれないだろうけど、勿論それには理由がある。それはね、僕は絵を描いている時、夢を見ながら描いていたからなんだ。君は気づいているか知らないが、ニューヨークに来て絵を描き始めて最初の4年と、その後のものでは、まったく違ったことがあるんだ。4年目にスミレという我が子の存在を知ってからは、僕はスミレのことをいつも心の中において絵を描いていた。僕がスミレと共に生きられたのは、絵を描いている時だけだった。僕は、スミレといつも絵の中で遊んでいたんだよ・・・。そう、叶えられない夢を、絵の中に見ていたんだ。・・・ただ残念ながら、それはあくまでもキャンパスに向かっていた時だけで、現実に戻っている時の僕は、決して幸せではなかった。どんな賞賛も、どんな名誉も、僕には価値のあるものではなかった。それどころか、スミレや麻子に何もできなかった自分に、
罪悪感を覚えることもあったくらいだ。・・・ところが、僕はここに帰って来て、スミレと直接会うことができた。ほんの10メーターの距離を一緒に歩いただけだったけれど、声まで聞けて、そして手まで引いてもらったんだ。それがスミレだと後でわかって、僕がどれだけ嬉しかったかわかるかい。あの子の体温を僕は最後の時まで忘れない。神様はね、最後の最後に、僕に最高の贈り物をしてくださった。僕の前にあの子を導いてくださって、僕に安らぎを与えてくださった。たったそれだけで、長いこと波立っていた心が、いっぺんに穏やかになったんだ。僕がラスとして築いた仕事の実績も、ラスとして受けた名誉も。そんなものは何も、この最後の時を勇気付けてはくれなかった。僕を最後に救ってくれたのは、間違いなく我が子の手の温もりだった・・・。・・・もう直接スミレと会って話すことも叶はないだろう。もしスミレにあの絵を渡すことができたら、伝えてほしい。いてくれて、ありがとう。― ってね。君がいたから僕はここまで頑張れたんだって。それから、産んで育ててくれた麻子にも、感謝していると・・・。― それが、レイが残した最後の言葉でした。」
特別に意識さえしたことのない父だった。本音を言えば、実の父親の存在を拒絶して生きて来たといってよかった。
その人が、この二十数年間ずっと自分のことを考え続け、愛し続けていてくれていたということを知らされて、スミレは口を付いて出る言葉もなく、ただボー然と、机の上に並ぶその人の写真を見つめていたが、その目には少しづつ涙が溢れ出していた。
「レイは間違いなくあなたのことを、この地球上で最も愛していたんですよ・・・。直接あなたに対してなにもできなかったけれど、それは仕方がなかったの。そうなってしまったのはめぐり合わせなんですから。あなたのお父さんを恨まないでね。レイもその分苦しんだし、遠くで見守るだけの人生で我慢したんですから・・・。」
そう言うと、ミセス・ベンサソンは今にも泣き崩れそうなスミレを優しく抱きしめ、そっと涙を拭ってやった。
「ミズ・アサコ。これからお二人を、レイが暮らしていた部屋までお連れします。レイから頼まれた、お嬢さんへの贈り物はそこにあります。それから、現在私のこのギャラリーには、レイの作品の殆どの原画をコレクションしてありますが、それは後でゆっくりご覧ください。実は、これからお渡しするものを私はすでに見ているのですが、それを見て初めてわかったことがあります。それをお伝えするためにも、まずお嬢さんへの贈り物を見に行きましょう。」
言葉を失って黙り込んでしまった麻子とスミレを、ミスター・ベンサソンは急かすことはしないで、自分の机に向かうと引き出しを開け、中から鍵の入った封筒を取り出した。そして、鍵を封筒から取り出すと上着のポケットに入れ、そのまま一度部屋を出て行ったが、2、3分して戻ってくると、落ち着きましたか、さあ行きましょう。― そう二人に声を掛けた。
R A S (ラス) −父からの贈り物−
礼一の暮らしていた部屋は、ウエスト・ヴィレッジでもソーホー寄りのベッドホード・ストリートにあった。
ウエスト・ヴィレッジ地区はどちらかといえば、少し高級住宅街というイメージがあるのだが、礼一が暮らしていたというその建物は、以前は倉庫や工場が沢山あったソーホーに近いせいか、いまだに残る3階建てのレンガ造りの古い建物で、1階は左半分が雑貨やタバコを売る店になっていて、建物の真ん中にある二階に上がる階段への入り口を挟んで、右半分はコインランドリーになっていた。2階と3階がアパートか、或いは個人のプロパティーになっているようだったが、1階の雑貨屋は最近になって経営者が韓国人に代わった。― とミスター・ベンサソンが教えてくれた。
「ニューヨークに来て私と知り合ってから、レイはずっとここで暮らして来ました。今でこそ、ソーホーもウエスト・ウ゛ィレッジも地価が上がってしまい家賃も高くなってしまいましたが、レイがここで暮らし始めた頃は、まだここいらは安かった。・・・まァ、この建物だけは相変わらずあまり手を加えられなくて綺麗な物件とは言えませんが、それでもレイの生活に余裕が出来始めた頃に、もっと広くて便利な物件を進めたこともあるのですが、レイはここが良いと言って変わろうとはしませんでした。多分色んなことがあって、レイは生活態度を変えなかったんだと思いますが・・・。さァ、入りましょう。レイの部屋は2階です。」
3人は建物の真ん中にある入り口から入り、階段を上って行った。長い間張り替えてないのか、木造の階段に張られてあるカーペットの所々が磨り減っていて、下の木肌が見えている部分があり、麻子には何となく場末のボロアパートに感じられたが、礼一は高望みをすることもなくここで暮らし、この階段を毎日使っていたのかと思うと、何となく礼一のことが意地らしく感じられた。
「この右側の部屋がレイの部屋です。ちょっと待ってください。鍵を出しますから。」
ミスター・ベンサソンがそう言って、上着のポケットから鍵を出して部屋を開けようとした時、廊下を挟んだ反対側のドアが開き、よく肥えた年配の黒人の女性が出てきてミスター・ベンサソンに声を掛けた。
「おやピーター、あんただったのかい。ここのところ来る人もいないくて静かだったから、廊下で話し声がするので何かと思ったよ。」
「おやジャネット、御機嫌よう。いや、今日はお客さんを案内してきたんです。・・・そうだ、紹介しなければね。」
ミスター・ベンサソンはそう言うと黒人女性の側に行き、親しそうに彼女の肩を抱くと、麻子とスミレの方に連れて来た。
「ジャネット、驚かないでくれ。この方達はレイにもの凄く縁のある人達なんだ。」
そう言うとミスター・ベンサソンは、スミレの方をまず手で指し示した。
「実はこのお嬢さんは、レイの本当の娘さんなんだよ。名前はスミレって言うんだ。それからこちらはスミレのお母さん。ここのレイのアトリエに、レイが最後に描いた絵があるだろう。レイに頼まれて、あれをこのお嬢さんに渡すために今日は来たのさ。」
「えッ、レイのお嬢さんだって・・・。信じられないねェ。レイにこんな立派なお嬢さんがいたなんて、これまで一言も聞いたことがないよ。まァ、なんてことだろう・・・。でも、はじめまして。本当によく来てくれたわ。」
「ミズ・アサコ、スミレ。こちらは向かいの部屋に住んでいるジャネットおばさん。レイがここに住み始めてから、母親のように面倒を見て貰っていた人なんですよ。レイが日本に帰ってしまってからのこの数ヶ月間は、ずっと部屋の管理を頼んでいます。」
「そうなんですか、それは本当にお世話になりました。実は色々事情がありまして、礼一とは長年連絡が取れませんでした。本人が亡くなってから、こうして訪ねて来ることになってしまいましたので、何もわかりませんでしたし、何もできませんでした。本当にありがとうございました。」
アサコはそう言うと、ジャネットの手を両手で握り頭を下げた。
「なーに、気にしなくていいのよ。レイがここで暮らしたのは二十何年だったかねェ。その間私達も世話になったし、楽しませても貰ったんだから。特にレイは律儀な人だったし、何と言ってもあれだけ有名になっても、ずっと私達と同じ世界で暮らしてくれたんだもの。私にとっては息子みたいなものさ。それに自慢じゃないけど、昔ここに住んでいた連中で、3人の人間が有名になってくれたわ。一人はそこのウォール街を中心に、今ではらつ腕弁護士で有名なケビン・クライスラー。ケビンはテキサスの田舎から出てきて、ここで暮らして下積み時代を過ごしたの。それからもう一人。レイとケビンとその子の3人は、本当に仲が良かったんだけどね、知ってる、今じゃ大女優のセーラ・トランドット。彼女も昔はここに住んでたんだよ。」
「えッ・・・。セーラ・・・、トラン・・・ドット。彼女もここに・・・。」
「えェ、セーラは本名はベンタ・トランドットって言って、ノルウェー人なのよ。元々はブロードウェイのミュージカルをやりたくて、ノルウェーから来たんだけどね。あの美貌だろ。ブロードウェイでデビューする前に、ハリウッドの有名な映画会社のプロデゥーサーの目に留まってね、スクリーン・デビューしたら、後はとんとん拍子に大出世さ。ただ名前が馴染みにくいというので、セーラに変えたのさ。」
麻子はその話を聞くと、膝から崩れ落ちるようにして廊下に座り込んでしまった。
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